「国葬」は露骨で危険な安倍崇拝の儀式だった
「国葬」は露骨で危険な安倍崇拝の儀式だった
<「民主主義の危機を乗り越える」という岸田首相の掛け声とは裏腹に、「国家」という言葉ばかりが目立つ権威主義と安倍元首相の熱狂的ファンの集いとなったことには引き続き批判と検証が必要だ>
9月27日、安倍元首相の国葬が日本武道館にて執り行われた。この国葬が本来行われるべきではない行事であるのは、このコラムで繰り返し書き連ねてきた通りだ。そのうえで行われたこの国葬を、筆者は中継や夜のニュースで見てみたのだが、内容面でも極めて問題があるイベントであった。【藤崎剛人(ブロガー、ドイツ思想史)】
「民主主義を守る」という建前はどこへ
安倍元首相の国葬を行う建前の一つは、安倍元首相が民主的な選挙の過程で凶弾に倒れたということにあった。この民主主義の危機を国葬によって乗り越えるべきだというのだ。山上容疑者の動機から言ってもこの理屈が詭弁であるということは別記事でも述べているが、それでもこうした建前を取る以上、国葬イベントは民主国家の理念に適う内実を持つべきだっただろう。
しかし、実際に行われた国葬は、日本国憲法に書かれているような近代的な民主主義の理念とはかけ離れた、国家主義的・権威主義的・民族主義的な内容のイベントだった。自衛隊が至る所で活用され、追悼の辞では「自由」や「民主主義」、「人権」というキーワードではなく、「国家」、「日本」という保守派に媚びたようなキーワードが目立った。踏み込んでいえば、安倍元首相を個人崇拝する右派グループの安倍晋三とのお別れ会を、税金を使って行ってあげたようなものだった。
筆者は各国の国葬を「詳らかに」検討したわけではないが、せっかく日本は敗戦によって明治以降の権威主義体制と断絶したのだから、より市民的・民衆本位的な演出を取り入れることもできただろうと思う。しかし誰が企画したのかは分からないが、安倍元首相の国葬は、権威主義的な指導者に対するそれのカリカチュアのようにみえた。列席する男性たちが、民衆ではなく、高みにある故人の遺影と向き合い、その全人格を褒め称えるのだ。
個人崇拝の内輪向けイベント
とりわけ筆者が閉口したのは、安倍氏の政治家としての歩みを振り返る、およそ8分の尺があるVTR映像だ。安倍元首相の生前の映像とともに、彼の政治家としての「業績」が振り返られるのだが、そこでは現在でもなお政治的には論争的な内容が、全て「業績」としてカウントされている。もちろん明白な失敗や問題発言は省かれており、あたかも安倍元首相は無謬の政治家と言わんばかりの編集だった。
しかも長い。特に緩急があるわけでもない映像を緩急がないメロディに乗せて8分間も流されて耐えられるのは、安倍晋三の余程のファンだけだろう。仮にあのVTRが3分に纏められていたとすれば、少なくとも演出としては理解できる。しかし8分という長さであの映像を編集したというところに、このイベントの「内輪向け」感が強く出ていると思うのだ。
安倍ファンの集い

菅元首相(写真)が友人代表として行ったスピーチは「エモい」と評判が良かったようだが(9月27日、東京の日本武道館) Eugene Hoshiko/ REUTERS
つまりこの政府が作成したとされる映像は、安倍元首相に批判的な人はもちろん、そこまで熱心ではない消極的支持者が見ることも想定されていない。8分という長さは、そのような人々の視聴にも耐えうるように編集するのではなく、総花的にあれもこれも詰め込んでしまった結果だろう。あの映像は、あくまで安倍元首相への愛に溢れたファンに向けてつくられているのだ。
国家の私物化
VTR映像では、安倍元首相は正しいことをし続けてきた首相であるかのように編集されていた。菅前首相による追悼の辞でも類似の表現があった。「総理、あなたの判断はいつも正しかった。」から始まる一節だ。菅前首相は、安保問題や拉致問題について安倍元首相の判断を評価している。しかし、たとえば安保法制や共謀罪には憲法上の問題がある。TPPも経済に与える影響はまだ未知数だ。また拉致問題では、最近一時帰国の提案を日本側が拒否していたという報道があったばかりだ。
こうした論争的な問題を、菅前首相は安倍元首相の「功績」として持ち上げている。自民党支持者であれば、それが功績なのが自明なのかもしれないが、国葬であるからには日本にいるあらゆる市民を代表しうるような内容であるべきだろう。
安倍元首相には多くの疑惑があり、それに伴い国会では「桜を見る会」問題だけでも、少なくとも118回の虚偽答弁を行った。これは国会軽視でもあり、民主主義のリーダーとして相応しくない振舞だった。こうした事実は誰もが知っているにも拘わらず、安倍元首相をリーダーとして全人格的に肯定するスピーチは、美辞麗句を通り越し、このスピーチ自体が虚偽であるといえよう。
菅前首相の追悼の辞をはじめ、この国葬は自民党政治を正しいと考え、安倍晋三元首相は無謬であったと考える者たちのためのイベントなのだ。。自民党葬であれば勝手に評価でも神格化でもすればよい。しかし国葬と銘打ったイベントでそれを行うのは、国家の私物化に他ならない。菅前首相による追悼の辞は世間では「エモい」と言われており、評判が良いらしい。芸能人の葬儀であればそのような評価で事足りるのかもしれないが、国葬という政治イベントでの政治家の発言を、エモいかどうかで評価してしまうのは、とても危険な行為なのだ。
少なくとも国葬を積極的に支持している人たちの一部は、たとえば国葬の参列者や一般献花者は、国葬の私物化に自覚的だ。彼らは世論調査を認めず、国葬への反対者を「反日」「極左」「外国人」であるとみなしている。つまり、自らの側こそが「日本」そのものだと思っているのだ。
これからの批判と検証が最重要
国葬会場では、安倍元首相に近かった右派系文化人が嬉々として写真を撮り、SNSにアップする姿も目立った。もちろん宮本亜門氏を初め、招待された文化人の欠席が相次いでいるため、あえて出席した文化人に偏りが出てくるのは当然なのだが、国葬の根底にある思想そのものが、国家中心主義・権威主義に偏り、右派系雑誌の論調と同一になってしまった理由については検証が必要だろう。なにせこのイベントには、16.6億円ものの国費が使われているのだから。
国葬が執り行われてしまったことでひと段落させてはならない。国葬が見せた露骨な国家主義と個人の神格化に関しては、手続き上の問題や予算の使い道と同時に、国葬が終わってからでも執拗に追及していかなければならない。