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2017年8月10日 (木)

論考 ロシア革命100年 “レーニンのボルシェビキ”は正しかったのか

猛暑が続きますが、あまり無理をせず、読書で英気を養うのも、夏の過ごし方。今年はロシア革命から100年。今一度20世紀最大の出来事の一つのロシア革命をふりかえるのも必要では。で『未来』228 号の論考を紹介。巻末の文献なども含めて、図書館の涼しい所で読んでみたはいかがでしょうか。

論考
ロシア革命100年
山田 一郎
“レーニンのボルシェビキ”は正しかったのか

2017年はロシア10月革命(1917年)から100年に当たっており、各方面でロシア革命の特集が組まれ、ロシア革命にかんする出版も続いている。そのなかの一つに【新書版】「『中核』~ロシア革命100年」(マルクス主義学生同盟・中核派)(以下「中核」)がある。
そこで論じられているロシア革命論は、「10月」が中心である。しかし、その後の苛烈きわまる国内戦については触れられていない。1917年10月25日で終わっている。
ロシア革命というとジョン・リード『世界を揺るがした10日間』、トロツキー『ロシア革命史』などが引き合いに出される。しかし、これらはあくまでボルシェビキの公式な歴史にすぎない。「10月」は確かに、重要な結節点ではあった。しかし、その後80万人ともいわれる犠牲者を出した苛烈な国内戦は、ロシア革命が生き残るための死活の問題であったはずだ。また、チェカ(注1)による赤色テロルの問題も、議論されるべき重大な問題であるはずだ。
ボルシェビキの公式な歴史によれば、クロンシュタットの水兵(注2)やウクライナの農民(注3)蜂起は、帝国主義者に後押しされた反革命だという。しかし、これらについて、アナーキストや社会革命党のわずかな生き残りが書き残した記録からすると、革命の理想を裏切ったのはボルシェビキであり、レーニン、トロツキーはボルシェビキの党派的利害を維持するために、ボルシェビキを批判するすべての意見に反革命の烙印を押して暴力的に抹殺しようとしたという。
これらの批判に対して、「中核」は一切触れていない。ウクライナの飢餓と農民反乱、クロンシュタットの反乱等の歴史的事件に向き合うことができないのだ。このような歴史観を彼らは現在においても死守しようとしている。しかしこの傾向は、われわれを含む多くの左翼諸潮流が共有してきたものである。諸情報が公開され真相が明らかになっている今日、これらの偏向を乗り越えねばならないのは明らかだ。

トロツキーの汚点

これらの歴史的事件こそは、ボルシェビキが10月蜂起で権力を握って以来おこなってきたこと、一切のボルシェビキの方針にたいする批判を許さない、という行為を象徴的に表している。そして、トロツキー、トハチェフスキー(注4)らがスターリンの大粛清の犠牲になる要因につながっていく。クロンシュタットの反乱鎮圧には、スターリンは関与せず、レーニン、トロツキーそして実行部隊の指揮官はトハチェフスキーであった。
国内戦では、確かに数々の輝かしい功績をあげたトロツキー、トハチェフスキーではあったが、その一方で、拭いがたい汚点を後世まで引きずっている。「彼らこそが革命の理想の裏切り者である」という、大衆的な非難を浴びるに十分な根拠があった。
スターリンが権力闘争で優位に立てた大きな要因は、ボルシェビキ、レーニン、トロツキーの「一切の批判は許さない」という方針にあったのではないだろうか。スターリンはレーニンを神格化して、自分の権力の強化に利用した。スターリン主義が単なる「一国社会主義論」にのみ基づいた問題であるのか、もう一度検討する必要がある。

後世に残すべき記録

アナーキストや社会革命党などの残した記録は、過去には鹿砦社、現代思潮社などから出版されていた。しかし、多くは絶版となり現在入手は難しい。しかし、ロシア革命とは何であったのかを知るために貴重なものであるので、ぜひ読んでいただきたい。また、後世に残さなければならない貴重な財産であり、ぜひとも何らかの形で再版されるよう希望する。末尾に主なものを示す。
これら、アナーキストや社会革命党などの残した記録を簡潔にまとめたものとして、高本茂『忘れられた革命―1917年』(幻冬舎ルネサンス)、があり、これは入手が容易である。
同書のあとがきで高本は、次のように述べている。
「闘争の渦中で死んでいった者たちは何のために死んでいったのか。 … ロシア10月革命が、当初から裏切られ変質させられていたのだとすれば、自らの生死を賭けた闘争は、人間の解放と輝かしい理想社会のためではなく、世界全体を強制収容所や暗黒の監獄国家と化し、全人類を奴隷化するための運動だったということになり、無謀な侵略戦争の中で戦死した無数の兵士たちと同様に、全くの無駄死、犬死にだったということになるのではあるまいか。」
されど、私は高本がそのように考えているとは思わない。「はしがき」では彼は次のように述べているではないか。,br> 「革命の創始者の裏切りと変質にもかかわらず1917年の当初のロシア10月革命には一片の真実があったのだ。1917年10月の革命は疑いもなく世界中の人々に生きる勇気と力を与えたのだ。」

レーニンは何を恐れたのか?

同書の21ページでは、レーニンの中央委員会への手紙から次のような引用がある。
「同志諸君! 私は24日の夕刻、この手紙を書いている。状況は、かつてないほどの危険だ。はっきりしていることの中で、もっともはっきりしていることは、たった今、蜂起をためらうことは、死ぬのと同じだということだ。 … ぐずぐずしていてはだめだ! 全てを失うぞ! … 歴史は今日なら勝てたのに(きっと勝てる)明日になって多くを失い、いや、すべてを失った革命家の逡巡をゆるさないであろう。」
だが、これは本当か? 当時のケレンスキー政権は風前のともしびであり、「たった今、蜂起をためらうことは、死ぬのと同じだ」というのは極端な誇張にすぎない。レーニンは本当は何を恐れていたのか? 権力を奪取することは「腐った木戸を蹴破るほどたやすい」ことだった。10月蜂起ではほとんどなんの流血もなかった。それは「暴力革命」とは程遠いものだった。

10月に先立つ革命

ロシア10月革命は、ボルシェビキの「10月蜂起」という政治革命によって初めて可能になったのではなく、10月蜂起にせんだって進行していた体制変革を追認したにすぎない。都市の工場では工場占拠や自主管理が実施されており、多くの農村では10月蜂起の前の夏から秋にかけて、地主の所有地が土地委員会に没収され農民に分配されていた。権力奪取はボルシェビキがおこなったが、それに先立つ社会革命は無名の無数の大衆がおこなった。
権力を取ったボルシェビキは、ペトログラードの旧ノーベル製油所で労働者が自主操業を始めた時、これを禁止した。クロンシュタットのソビエト家屋委員会が住居および住宅の管理の社会化と公正な再配分を進めようとした時、ボルシェビキはソビエト家屋委員会を破壊し、その管理を政府の土地・建物センターに移した。ボルシェビキは、革命によって何をめざそうとしていたのか。(以上、高本)
私は、アナーキストや社会革命党などの主張のすべてが正しいとは思わない。確かに、ロシア革命が苛烈な国内戦を勝ち抜く過程において、よく組織されたボルシェビキ、とりわけトロツキーやジェルジンスキーの功績には偉大なものがあったと考える。パリ・コミューンのように、帝国主義者の包囲により圧殺されるかの如く考えられていたロシア革命に奇跡が起こった。しかしそれは、ボルシェビキだけの功績ではなく、アナーキスト黒軍や、ムスリム赤軍などの貢献の成果でもあろう。しかし、ボルシェビキの公式な歴史では、それら民衆の戦いは、単なる匪賊や反革命の手先として歪曲された。これらを、辛うじて伝えているのが、アナーキスト、社会革命党などが残した記録である。

われわれの課題

革共同は、反スターリン主義という理念で一つの時代を切り開いた。しかし、それはまだ歴史の真実に十分には届いていないと考える。ロシア革命史をさらに検討する中から、私たちに今、どんな思想が必要なのかを検討すべきなのではないだろうか。「社会主義」が世界中の民衆の希望を裏切ってきたなかで、世界の多くの国々ではイスラム教などがそれに変わる位置を占めているように思える。
しかし、10月革命において示された社会主義思想は、本来はもっと輝かしい世界を実現する可能性も秘めていたのだと思う。前衛党の神格化、民主主義の否定、批判の自由の抑圧、暴力による支配にこそ、腐敗の根拠があると考える。それを克服しながらもなお、組織化された民衆の世界を作り上げる、そうでなければ勝利することもできない、という矛盾を克服することがわれわれに課せられた課題であると考える。

(注1)チェカ 1917年12月、ソヴィエト政権を反革命から守るために設置された「反革命・サボタージュおよび投機取り締まり全ロシア非常委員会」の略称。議長はジェルジンスキー。
(注2)クロンシュタットの反乱 内戦中の1921年、労働者の飢餓が進み、モスクワ、ペトログラードで大規模な騒乱が広まった。ボルシェビキは戒厳令を出し、集会の禁止、スト参加者の逮捕と軍隊で弾圧した。これにたいして、クロンシュタットでは臨時革命委員会が結成され、次の綱領が決議された。「現在のソビエトは、もはや労働者農民の意思を代表していない。」
(注3)ウクライナの農民反乱
1920年1~2月サマラ県、カザン県、ウファー県での大規模な農民反乱。8月タンポフ県で農民反乱「アントーノフの乱」、9月西シベリアで農民反乱始まる。
1921年6~8月、ボルシェビキ、赤軍が農民反乱を鎮圧。反乱に参加したものの多くは、赤軍に虐殺された。アントーノフは射殺され、マフノはドイツへ亡命した。
(注4)ミハエル・トハチェフスキー ソ連赤軍の最高指導者・元帥。1937年スターリンによって粛清。

【参考文献】
ヴォーリン『1917年・裏切られた革命』現代評論社
同右『知られざる革命―クロンシュタット反乱とマフノ運動』国書刊行会
アルシーノフ『マフノ反乱軍史―ロシア革命と農民革命』鹿砦社
イダ・メット他『クロンシュッタット反乱』鹿砦社
アヴェリッチ『クロンシュタット1921』現代思潮社
スタインベルグ『左翼社会革命党―1917―1921』鹿砦社
同右『左翼エスエル戦闘史―マリア・スピリドーノワ1905―1932』鹿砦社
山内昌之『神軍 緑軍 赤軍』ちくま学芸文庫

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