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2017年1月26日 (木)

10・8羽田闘争から50年~新左翼・革共同50年の総括のために

 2017年はロシア革命から100年であるとともに、10・8羽田闘争から50年でもある。日本における新左翼運動の総括もかけて、各種文献・見解も紹介していく。その手はじめに、尾形史人さんの『革共同50年私史』(社会評論社)という書物と、その尾形さんを追悼する文章を紹介する。68年反戦高協から70年安保全学連の副委員長、そして指名手配と地下活動と7年の獄中生活。出獄後10年余りで革共同(中核派)から離党し、2016年8月、『革共同私史』を残して亡くなった。その人をともに闘った仲間が(最終的には政治的立場は違ったが)追悼している文章が『未来』に発表されている。
 一つの新左翼運動の総括として追悼文と、さらには『革共同私史』を読み、総括を深めていってもらえれば、この50年の闘いの深化がはかれるのではないかと思う。

尾形史人君を追悼する
剛田 力

 厳しい闘病生活の中で『「革共同五〇年」私史―中核派の内戦戦略=武装闘争路線をめぐって』を書き上げ、しかし発行を待つことなく昨年8月26日尾形君は帰らぬ人となった。 彼との出会いは70年6月の代々木公園で首都圏の全共闘隊列の最前線にいた。71年夏の全学連大会では、尾形君は議運、私は議長団の一人として、女性活動家たちの糾弾に右往左往しながらも正面から向き合った。舞台裏で対策会議を繰り返したが、革共同から指導にきていた政治局員は「全学連の危機、指導部の危機」と言うだけで頼りにならず、それぞれが必死に考えた。

71年 広島で

 直後彼は広島にやってきた。広島では春に当時の首相佐藤栄作が広大全共闘のデモにたいして首相の指揮権を発動して禁圧するという事態があった。天皇の訪問を弾劾するデモを公安委員会が認めず、裁判闘争でそれをひっくり返したが、権力は「天皇がヒロシマで歓迎された」と描きたかった。全共闘は実力デモを敢行しようとしたが、キャンパスを出た瞬間に機動隊の襲撃を受け、多くのけが人を出し蹴散らされてしまった。この佐藤が侵略戦争や被爆に反省もせず謝罪もせず、何らの国家責任をとることもなく、8・6祈念式典に首相としてやってくるという。実力阻止しかないと考えた。尾形君はこの闘争の裏指導部としてやってきた。彼は「ゲリラ」戦を企画。見事に成功した。国鉄(当時)の電車が立ち往生し、佐藤の広島到着が何時間も遅れるという事態をつくり出した。権力は嵐のためだとごまかし、われわれも公表しなかったため、知る人がほとんどない真相である。その後、私は8・6直前に別件ででっち上げ逮捕された。

85年 関西で

 再会したのは85年。ともに70年代の早い時期から地下生活を送っていた。紆余曲折を経ながら両者とも関西に来ていた。しかし彼はいわば地区組織に属した裏組織、私は非公然の最深部にいたためお互いの存在すら知らなかった。 85年4月、指名手配をされても外での様々な任務を担った方が心身共に健康だろうと、彼も私のいる部署に移籍してきた。ところが2カ月もたたない間に突然の別れがやってきた。1人か2人に1~2回会っただけで同じ部署の仲間にまだ紹介もしてない、ほとんどの仲間は逮捕されてから彼を知ることになった。芦屋で彼が逮捕された責任はすべて私にある。前年9月には自民党本部焼き討ちゲリラも炸裂、関西でもその前に関西新空港建設を巡って科学技術センターが燃え上がるなど大きな闘争があり、権力・財界との極度の緊張関係にあった。その状況下、高級住宅街で知られる芦屋に、簡単な任務だからと、一人で行ってもらった。その結果彼は逮捕され7年間の獄中生活を送ることになってしまった。直接会って謝罪することができなかったのが今も心残りだ。

身の危険感じ離党

 92年の出所、神奈川県委員会への配属、2000年に離党、近年は沖縄に移住、革共同を総括する作業をしていること、ガンとたたかっていること、彼の動向は絶えず風の便りとして聞いてきた。そして昨年夏帰らぬ人になったとの連絡が届いた。11月には偲ぶ会が開かれた。中学・高校の同級生、全学連時代の友人、関西での関係者、沖縄をめぐるつながり、獄中で励まされたという人、地元神奈川からは彼が離党した後もともにたたかった人など多くの労働運動関係者が参加した。 その場にいて強く感じたひとつは離党の事情。単に路線対立でもないし、革共同の今日的破産に見切りをつけたのでもなかった。岸宏一政治局員(当時)を責任者とする機関によって、党内反対派が「スパイフラクション」とされ追放された。彼に近い立場にあった人たちが受けた取り扱いを見て、身の危険を感じての離党を幾人かの人が明らかにした。

「革共同五〇年」の総括

 今ひとつは、闘病生活の中で生命と存在をかけて『「革共同五〇年」私史』を書き上げた彼の強烈な思い。その問題意識は同書の序章に書かれている。
  「闘争への参加規模、問題提起の深さなどから、70年闘争は歴史に大きな『申し立て』をした、と私は考えている。したがって、その壮大な闘争を矮小化し、曲解することに、私は大きな疑問がある。いわば、70年闘争を、その歴史から消したいと願っている権力から救うことを試みたい、と切望している。 権力との闘いは、いつの時代になっても続くものであろう。そうだとすれば、70年闘争がなにを残し残さなかったのか、これを記録することは闘いを担った人間の責任でもあろう」 「60年代後半から70年代を彩り、その後もゲリラ戦という形で続いた武装闘争について歴史的評価をすることは、現代人の避けられない仕事である。革共同はその渦の中心にいたのであるから、その領域についての評価に積極的に立ち向かうべきだと考える。 この過程では、革共同内外の多くの人々がかかわり、人生を左右されてきた。獄中の人となり、指名手配の厳しい探索と対峙してきた人も多い。あるいは権力との武装闘争、革マル派との闘争において命を落とした有為の若者たちがどれだけ存在することか。 現在の革共同が路線転換したとしても、この事実を消し去ることは許されない。それは、歴史と死者への冒涜というものである。本書を執筆する最大の動機は、以上の点にある」
  同書は当事者による初めての自己合理化とは無縁の革共同史だと私は考える。あるブログに「著者自身の内的な切開という視点が薄れている」のではないかという疑問が寄せられていたが、それは残された私たちがなすべき課題であろう。彼が望んでいたように議論を深めていきたい。

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