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2016年10月11日 (火)

直撃インタビュー 第33弾 「ふつうの暮らし、避難の権利」を訴える(上) 森松明希子さん(原発賠償関西訴訟原告団・代表)に聞く~

直撃インタビュー 第33弾
「ふつうの暮らし、避難の権利」を訴える(上)
森松明希子さん(原発賠償関西訴訟原告団・代表)に聞く
~『未来』208号より   

「ふつうの暮らし、避難の権利」を求める森松明希子さん(原発賠償関西訴訟原告団・代表)に聞いた。森松さんは3・11当時、福島県郡山市で夫、3歳、5カ月(当時)の子どもと4人で暮らし、住宅が壊れ、地域の避難所に。郡山市は第1原発から60キロ圏だが、線量は高い。5月に関西へ「帰省」したのを契機に母子避難。(9月2日、大阪市内。文責=編集委員会)

―原発事故のときは、どういう状況だったのでしょうか
私は、郡山市です。避難所にいたとき、やむなく子どもたちに水道水を飲ませました。いま思うと悔やまれてならないのですが、他にないのだから苦渋の決断でした。毎日どうするかということに明け暮れ、ほんとうに事故の様子や危険はわからなかった。5月の連休に知り合いを頼って関西に一時避難したとき、福島の外からテレビや新聞を見て「ああ、福島はこんなんだ」とわかり、避難を決断する契機になりました。
同時に、福島の状況について全国にはあまり知らされていないんだなあとも思いました。当時、どこどこは線量が高い、ホットスポットがあるとセンセーショナルに話題になりました。だけど数値を聞いても、それ自体は誰も痛くも痒くもない。毎日の暮らし、どんな心配があるか伝わっていない。というより、隠されている感じでした。実際に、郡山はめっちゃ線量が高いけど見た目はまったく普通の暮らし…。

なにもなかったの?

あのとき5年後のことは考えてもみなかったですね。当時は「シーベルトって何?」というような…。当然ですよね。みんなが専門の勉強をする、数値計算ができるというよりも、放射線被曝とは何かという根本が大事だと思います。広島・長崎の被爆者が身をもって証言されているように、晩発性の放射線障害、ガンや白血病、その長いスパン、2世、3世への心配などに苦しんできた。せめて被曝ということを注意し、放射線からの避難を促すのは当たり前のことじゃないですか。
最初のころは、当然そういう方向になると思っていました。でも、どんどん「大丈夫」「何もなかった」かのようにされてしまった。「放射線の危険性」を言うと、風評被害を煽るかのように扱われます。

―自主避難、母子避難、いまの健康問題についてお聞きします
11年5月から当時3歳と5カ月の2児といっしょに、夫を郡山において「自主避難」しました。子どもたちは8歳、5歳になりました。子どもたちの毎日には、お父さんがいません。父親も子どもが「今日ハイハイした、初めて話せた。歩いた」ということを見ることがないのです。
ほんとうは「自主」避難ではありませんが、強制避難区域外ですから単なる引越し扱いです。保育園の入園など、あらゆる行政手続の壁にぶつかりました。
総務省が避難者登録を把握しているだけでも「避難民」は10万人近いのです。だけど実数はどこも正確には調べていません、調べようともしない。「引越し、定住」とし、避難民という言葉を消し去ろうとしているとしか思えません。本来は国や行政が現状、現実をきちんと調べ対応、支援をするべきでしょう。何のツテもなく遠くの知らない地方に逃げるなど、ふつうはできませんよ。私は関西出身だったから、かろうじて大阪へ避難することできました。特別に知識があり能力があったからではありません。
県民健康調査は、当時18歳未満だった子どもたちに2年に1回通知があり、甲状腺エコー検査を受けることができます。それも福島県内の30市町村あまりに限定、「無理に受けなくてもいい」という縮小傾向です。なぜか後向き。いま2順目ですが、うちはまだ1回です。

「基準値」を緩める

地域としては線量が低いところでも、食べ物などは流通するのにね。避難している人は、もういいとか。あまり問題にすると「不安を煽るな」と小児医学会などが言う。そんなことあるかいな~話が逆でしょ。調べてもどれだけわかるか、わからないかもしれない。だから曖昧でいいというのは本末転倒です。できるだけ精査するべきでしょう。戦後混乱期の広島、長崎は大変だったと思いますが、いまはやろうと思えば行政もしっかりし、コンピュータ管理もできる時代です。つごうのいい住民管理はやるけど、こういうことには後ろ向きとは、調べたくないとしか思えません。
いまガンは一般にも多い病気です。そこへ、いつの間にか年間「許容量」を変え基準値を緩める。勝手に数値を決め「大丈夫」かのように装う。こんなことを言うとすぐに被害妄想だと非難されますが、規制基準を年間100ミリシーベルトに、そして1ミリの規制を20ミリにする。100ミリにたいし20ミリですから、何となく大丈夫という雰囲気になってしまいますよ。

 

―5年が過ぎて、何を思われていますか
これだけ災害大国なのに、5年が過ぎても対応は遅々としている。放射線被曝検査、必要な検診や治療についても、それこそ広島・長崎の悲惨な体験があるのだから、そこに学ぶという姿勢はないのでしょうか。やればできるはずです。広島・長崎の被爆認定をめぐっても線引きや分断があったと聞いています。権力側はそういう負の部分だけ継承しようとしているのではないか、と勘ぐりたくなります。
先日、福島での裁判に行ってきました。いちばん大きな訴訟団です。国や東電側はかならず「風評に惑わされているんじゃないですか」「あなたは、いま住んでいますね」「最初に出た人たちも戻っていますよ」と言いよるんですよ。みなさん、けっこう線量の高い地域におられる。あまり気にしないようにしているのかなと思うと、それは違う。その日の裁判では保育園の元園長先生、3・11のとき2人目がお腹に、その後3人目ができたという若いお母さんたちが、「私たちも避難できるなら、したいですよ。だけど生活がここにあるし、強制でもない。仕事はどうするのか。簡単に家族そろって遠くに引っ越せない」と口々に話しました。事故直後は近県の親戚や知人を頼って一時避難した。でも、いつまでもお世話になれない。戻らざるを得ないじゃないですか。
「避難して引け目を感じなくてもいいんだ。みんな同じ思いじゃないの」と思いました。とはいえ、やっぱり地元にいる人は言いづらい。福島にいる人たちが、より苦しんでいる。引け目を感じる余裕があるくらいなら、私はもっとどんどん発信しなければ…。(つづく)

【解説】「3・11」以前の日本の基準は、年間1ミリシーベトが上限。それを年間20ミリシーベルトまで「安全」とした。「3・11」以前の放射線を扱う作業員の被ばく限度が5年間累計で最大100ミリシーベルトであったが、その後、最大250ミリシーベルトに引き上げられた。

〔もりまつ・あきこ〕
1973年生まれ。結婚後、福島県郡山市に在住中に東日本大震災、福島第一原発の事故に遭う。当時3歳、5カ月の2児とともに2011年5月から大阪市へ母子避難。非常勤の時間職員として働きながら子育て中。「避難の権利、原子力災害への恒久的救済」を求め集団提訴した原発賠償関西訴訟原告団・代表。「避難した人、とどまる人、帰還する人、すべてが有する基本的人権」を訴え、原発災害の根本問題を問い精力的に活動する。東日本大震災避難者の会Thanks& Dream代表。

 

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