今日から10月~安倍改憲政権打倒へ闘いの秋
今日から10月。10月や11月は闘いの秋(とき)という。いつからそういう呼称が始まったのかは知らないが、60年安保は6・15が中心だから、やはり70年安保闘争の過程で、その出発点となった67年10・8羽田闘争や、68年10・21新宿争乱闘争、69年・71年の11月闘争や、71年9・16三里塚闘争くらいから、「闘いの秋」のイメージが定着したのかもしれない。
その70年闘争の出発点となった「10・8羽田」闘争をめぐって、闘いの中で斃れた山崎博昭さん(当時大手前高校を経て京大1回生、18歳)を追悼する記念碑を建て、記念誌を発行するプロジェクトが高校関係者を軸に始まったことを、新聞とネットで知った。中公新書『高校紛争』にも出てくるが、当時大手前高校は反戦高協の拠点。山崎さんは京大へ進み1年生の秋に全学連の一員として10・8闘争に参加し、羽田弁天橋で亡くなった。この日の闘いを出発点に、68年佐世保エンプラ闘争から、大学闘争へと大きく闘いの輪が広がっていく。
それから約47年。戦後日本の反戦闘争は大きく様相を転換するが、70年にわたり戦争を阻止してきたのも大きな事実だ。当時の学生運動の世代も還暦を過ぎ70歳近くになろうとする。戦争へ進む安倍政権との闘いがし烈さを増すであろう中で、10・8闘争を記念するプロジェクトが単なる記念碑で終わるのでなく、なおも志を貫く人々の力、新たな闘いの道を切り開く道標になることを願いたい。
http://yamazakiproject.com/oote_sandoumeibo.html
>趣意書
「わたしたちはここで泣く!」
1967年10月8日という日付と、この日に羽田の弁天橋の上で、18歳で亡くなった山﨑博昭の名前を、わたしたちはいまも忘れることができません。
山﨑博昭の死は1960年の反安保闘争のとき、国会議事堂前で亡くなった樺美智子さん以来の、学生運動のなかでの死でした。
戦争に反対する。
その一点で二人の死は共通していました。67年10月8日の羽田闘争は、当時、ベトナム戦争が続いていたなかで、日本の首相が羽田空港から出発して南ベトナムへ向かおうとしたことへの異議申し立てでした。日本がベトナム戦争に加担することを阻止しようとする学生たちの闘いでした。
山﨑博昭は大阪府立大手前高校時代から反戦運動に参加しました。寡黙で成績優秀で、おとなしい青年だったことは級友たちの誰もが覚えています。その彼が京都大学文学部に入学して半年後、当時の三派全学連の一員として羽田闘争に参加。弁天橋を渡って羽田空港へ向かおうとした学生たちと機動隊との間で激しい衝突があり、彼は橋の上で亡くなりました。
わたしたちは、山﨑博昭の死は、戦争に反対した人間の死、としてだけ理解しています。なぜ彼があの日、弁天橋の上にいたのか。戦争に反対する意志表示をするためです。
一人の無名の若者の小さな死。その小さな死こそが、わたしたちにとって、いまも大事です。
この不幸な事件に接して、人生が変わったという人もいますし、当時の学生運動に関わらなかった人でも、この日のことを記憶にとどめて、自らの青春時代の激動の象徴にしてきた人もいるでしょう。わたしたちの世代は、10.8羽田闘争を経て、全共闘運動へつながる大きな学園闘争の渦を経験しています。その原点となったのが、10.8でした。
あれから半世紀が経とうとしています。
1967年10月8日という日付と、山﨑博昭の名前を聞くと、わたしたちはいまも泣きます。
半世紀という歴史の時間を経て、羽田の地に、弁天橋にほど近いところに、山﨑博昭を追悼する小さな鎮魂碑を作ろうと、わたしたちは発案しました。日本が徐々に戦争に向かいつつある現在、このプロジェクトは、山﨑博昭の名前とともに、わたしたちがいまも、これからも戦争に反対し続けるという意志表示でもあります。
ご賛同いただけますように、お願い申し上げます。
2014年7月4日
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